笑いに包み、より身近に 介護エンターテインメント ~ 講談・ミュージカル…
笑いやユーモアを交えて高齢者介護を取り上げる講談やミュージカルが登場している。介護を特別視することなく、肩ひじ張らずに、高齢社会の現実を受け入れてしまおうというバイタリティーを感じさせる。高齢者介護は介護者の負担も重く、とかく負のイメージを抱きがち。″介護エンターテインメント″は介護のイメージを変える原動力になるかもしれない。
「モモコ、ここにあった財布どうした」
「えっ、財布。さっきちやぶ台の上で見たわよ」
「中身ない。おまえ、取っただろ」
「もう、変なこと言わないでよ、お義父さん。あたし、お金に困ったってねえ、人のもの取らないわよ」
三月、半年、一年とこんなことが続く。
「どうしたんだろう。良いおじいちゃんだったのに、このごろ何か変」。
数日後、ついに出ましたボケの定番。
「モモコ、朝飯どうした」
「えっ、なに言ってるの、さっき食べたじゃない」
「いや。食ってない。自分ばっかり食ってないで俺(おれ)にも食わせろ!」
身ぶり手ぶりも交えて、話はテンポ良く続く。女性講談師、田辺鶴英さん(42)の創作講談「人生回り舞台 ボケさまざま」の一節だ。主人公のモモコさんは食料品店を営む大家族の長男と結婚したという設定。
「嫁」として、家事や子育て、店の手伝いと忙しい日々を送るうちに義父のボケが顕在化。義母や夫、同居している義姉の援助も理解も得られず、孤軍奮闘する。
深刻なテーマだが、そこは講談師の腕の見せ所。山場では釈台を張扇(はりおおぎ)で「パン、バーン」とたたき、雰囲気を盛り上げつつ、軽妙な話術で時に笑わせながら聴衆を飽きさせない。「講談師、見てきたようなウソをつき」と昔から言われるが、鶴英さんの介護講談は違う。大学目指して浪人中に、母が脳腫瘍で脳死状態となり、亡くなるまで四年半世話し、結婚後は寝た切りとなった義母を三年半在宅介護した。自らの体験をもとに95年に「鶴英ちゃんの修羅場介護日記パート1」「同パート2」を創作したのが介護講談の始まりだ。
当初、師匠や先輩たちは「介護は暗い。講談になじまない」とそろって反対した。だが鶴英さんはこうした反応にむしろ発奮した。「周囲の意見を受け入れることは、母と義母を介護した私の人生の八年間を否定するようなもの。介護が暗いというのなら、講談でそのイメージを明るく変えてみせると闘争心がわき上がった」
講談師として話術や間の取り方に磨きをかけると同時に、シンポジウムなどに出席して高齢者福祉の現状を調べ、ボランティアとしてデイホームなどを回り、生の声を集めた。
「人生回り舞台ボケさまざま」も、ある女性の実話だ。自治体や女性団体などからの招待が徐々に増え、今年の公演は全国36ヵ所に上る。昨年には師匠から「好きにやってよい」とお墨付きをもらった。
さて気になるモモコさんのその後--。義父のボケはさらに進行。そんなある年の暮れ、家族で年越しそばを食べているときに騒ぎが起こる。食卓で義父が目薬をごくごくと飲み始めたのだ。
「おやじ、これは飲み物じゃない。目薬だ。バカなことはよせ」と息子。
しかし父親も譲らない。父と息子が組んずほぐれつの大立ち回り。舞い上がったそばが宙を飛ぶ。
この騒ぎですっかり逆上した姑(しゅうとめ)と義姉が、口汚くモモコをなじる。
「あんたねえ、面倒の見方が悪いから、おとうさんがこんなに暴れるのよ」。
モモコだって黙っていない。
「嫁の私にだけ任せっぱなし。私だってね、あなたたちが手伝ってくれればもっとやさしく出来ますよ」
と言うや否や、なべ、かま、やかんをちぎっては投げ、ちぎっては投げ--。
こうして互いに感情をさらけ出した結果、義母や夫、義姉もモモコさんをようやく理解し介護に協力するようになり、話は大団円で終わる。ただ現実はそう甘くない。「全国各地で公演するが、『介護は嫁の仕事』という意識がいまだに根強いのに驚かされる。
介護は家族はもとより、地域全体で担っていくもの。私の講談を聞いた人が意識を変えてくれればうれしい」と鶴英さんは強調する。
1998年11月15日(日) 日本経済新聞より抜粋