PHP3月号【 ヒューマン・ドキュメント 】 ~ 女流講談師、笑いと涙 で「介護」を語る ~
取 材・文 亀山早苗 写真 御厨慎一郎
千葉県内のとある公民館。年配の男女が席を埋めるなか、女性講談師が登場。力強い声で語り出したのは……。「じいちゃんは認知症だから、大きな声で『バカー!』と怒鳴る。最初はむかっ腹を立てていたけど、ある日『バカに介護されてるあんたは何だ!!』と叫び返してやったら、『大バカだ!!』と返ってきた。そこから、じいちゃんの介護が楽しくなっていった」客席からドッと笑いが起こる。自身の経験を活かした「介護講談」で人気なのは、田辺鶴瑛さん (60歳)。33歳のとき、人気講談師・田辺一鶴さんの門を叩いて弟子入りを懇願し、以来、講談の道を突き進んでいる。鶴瑛さんは、人生そのものが、じつに波瀾万丈だ。それでも、すべてを飲み込んで、明るく逞しく、たおやかに生きている魅力的な女性である。
母の看護に明け暮れた青春時代
鶴瑛さんは函館に生まれた。父は別に家庭があったため母とは籍を入れておらず、父は週に2、3回しか家に来なかった。「小学生になると、どうもうちは他の家庭と違うとわかるから、母に聞くわけです。でも母はめそめそ泣くだけで、はっきり答えてくれなかった。それがイヤでしたね。私は真実を知りたいだけなのに」鶴瑛さん自身は戸籍上、母の姉の養子となっていた。そのため、父と母と自分、全員の苗字が違う。それを不思議に思いながら育った。高校を卒業したあと大学受験に失敗し、上京して予備校 通いをするようになる。「以前から『頭が痛い』と言っていた母が、ついに倒れたんです。脳腫瘍だと診断されて開頭したら脳動脈瘤で、専門の先生がいなかったので、そのまま頭を閉じました。すると、その当日に脳圧が上がって意識を失い、そのまま植物状態になってしまった。手術前、物忘れがひどくなってい た母に、『さっきも同じことを言ったじゃない、うるさいな』と言っていたことを本当に悔やみましたね」 深く後悔した彼女は、意識のない母を毎日見舞っ た。父は、お金は出してくれるがやってこない。母の病院に通っていることは、友だちにも言えなかった。いつまでこの状態が続くのだろう...先が見え ない看護だった。「18歳でしたからね。周りの同年代は青春を謳歌しているのに、私は家と病院を往復する毎日。そんなとき、父が『母を施設に預けて、おまえも自分の人生を歩んだらどうだ』と言ったんです。不人情な父を恨みました。殺してやりたいとさえ思った」3年後、母は意識を取り戻すことなく、静かにこの世を去った。
結婚後、二度目の介護生活が始まる
母の死は、寂しさと同時に、そこはかとない解放感を覚えたという。そこから、彼女は「自分探し」を始める。「母の生命保険があったし、父は生活費を振り込 んでくれるので、生活には困らなかった。そこで、大好きたった横尾忠則さんが行ったインドに、私も行こう、と思い立って。まずは三ヵ月、それ以降も何度か 行きました。でも、どうも私に精神的な変革は起こらなかったし、人生の師にも出会えなかった。それでも何かしたいという思いが強くて。私は芸術家になり たいと思っていたんです。作家か画家か女優かわからない。とにかく、芸術家(笑)」。陶芸家に弟子入りしたり、書店で草間彌生さんの本を見て激しく共感 し、押しかけて助手をしていた時期もある。その後はアングラ芝居で舞台にも立った。思い立ったらすぐ行動、なのである。そんなとき、函館時代の友人が縁 で、ある男性と知り合う。「とってもさわやかでいい人だと思って、会ってすぐに『結婚してください』と言ったんです。でも断られてね(笑)。あるとき 居酒屋でみんなで飲んでいて、私、気持ち悪くなって外に出て、道路で寝ていたんです。そのとき、彼がすごく親切にしてくれて。路上で寝る女なんて、普通は イヤでしよ(笑)?でも彼にはそういう偏見がないの。そこがいいなと思ったから、それからも何度かプロポーズしました」その後も何度か会うなかで、ある とき女友だちと彼と三人で函館へ行く機会があった。その際、彼がふと「情って移るもんだね」と。結婚が成立した瞬間だった。「すぐに子どもができて、夫の実家近くで暮らし始めました。ところが結婚して五年目、私か三十一歳のときに義母が倒れた。三ヵ月病院にいては、三ヵ月自宅で面倒をみる、という生活 だったので、同居したんです。 それからは、もう大変な生活でしたね。幼い娘は言うことを聞かないし、夫も介護を手伝ってくれない。義父も、義母とは不仲 でしたから。一人で背負いこんだあげく、ストレスが溜まっていたんでしょうね、帰宅した夫にソースをぶっかけたこともある(笑)」そんな鶴瑛さんを見か ねて、威張ってばかりいた義父、そして夫も次第に手伝ってくれるようになっていった。そして、三年間の介護の末、あれほど不仲だった義父にも「ありがとう」と言い、義母は息を引き取った。
「私が探し求めていたのはこれだ!」
義母の介護と子育てで、当時の鶴瑛さんは心身共にぼろぼろの状態だった。ところが半年後、不思議なことが起こる。夢に、ヒゲで有名な講談師・田辺一鶴さ んが出てきたのだ。 「私はテレビで見たことがあるだけだし、講談のこともよく知らない。どうして夢に出てきたのかと不思議に思っていたら、一ヵ月後、新 聞に『田辺一鶴、講談師修羅場道場を開く』という記事があった。おもしろそうだと行って聴いてみたら、もう、私が長年探し求めていたのはこれだ!と感じたんです。破天荒な話芸にすっかり魅せられて」すぐに師匠の元へ出向き、弟子にしてほしいと頼みこんだ。おかみさんに、「変わってるね、この人でいいの? この人、面倒みてくれないよ」とまで言われたが、意を決して講談の世界へ飛び込む。 「夫は反対しませんでした。『あなたは世の常識を知らないところが あるから、修業するのはいいんじゃない?』と(笑)。そうして33歳で修業が始まったんですが、もうひたすらびっくりの世界。姉弟子には『前座なんて人間じゃないんだから』と言われて。飲み会ではひたすらお世話係をして、残った食べ物もお酒も全部、胃袋に入れなくてはいけない。夜中までつきあって遅くに帰って、家族も犠牲にして、私は何をやっているんだろうと思うこともありました。師匠は本当に何も教えてくれないし(笑)」 めんどうな人間関係と、厳しい芸の修業。それでも大きな声で講談を読んでいるときは、すべてのストレスが発散されていくのを感じていた。なにより講談が楽しかった。入門から4年、二つ目に昇進したころ、たまたま自治体が開いた介護教室で自分の経験を話したところ、「介護をテーマにした講談をやってみたら」と人に勧められた。それを機に、介護講談を考え始める。「じつは講談の世界では、介護というテーマはタブーだったんです。そもそも、講談は軍記物や歴史物など、日常から離れたものを主題にすることが多い。介護は日常的過ぎるうえに、『暗い』というイメージが強いので。でも、ダメと言われたらやりたくなるのが、私の性分なんでね(笑)。講談は男性のものでもあるんです。だからむしろ、私は女性である自分しかできないものをやりたかった。だから介護講談はいいなと思ったんで す」 そうこうしているうちに、義父の介護が始まる。鶴瑛さんにとって、三度目の介護だ。「じいちゃん(義父)は義母が亡くなったあと、寂しかったんで しょうね、64回も見合いをして、彼女ができて、家を出ていたんです。ところが、2005年くらいから彼女が何度も電話をかけてくるようになって。認知 症が出てきたんですね。その後、トイレで倒れたりして、2006年になってすぐうちで引き取りました」
楽しみながら過ごした義父の介護
男尊女卑で威張ってばかりの義父の介護。本人が認知症になっていることを受け止められず、最初の1年は大変たった。 「夫と娘と3人で看ていたけど、とても無理。私もストレスで、じいちゃんを手ぬぐいでぶってしまったりして。そうとう自己嫌悪に陥りましたね。余裕が出てきたのは、ヘルパーさんに来てもらうようになってから。やっぱり心の余裕は大切です。同時に介護が面白くなっていきました。『助けてくれ』とひっきりなしに叫ぶじいちゃんに、一度姿を隠 してからひょっこり現れて、『助けに来たよ』と言う。そうすると、じいちゃんはもう大喜び」 母と同じ講談師の道を歩んでいる娘の銀冶さん(33歳)は、母と祖父の関係をこんなふうに語る。「おじいちやんと母は誰よりも深い絆で結ばれていたんじゃないかと思います。相性がよかった。介護をしながら、母は楽しそうでしたもん。遊び心たっぷりで、母のいいところが介護に表れていた。私も介護に参加しながら、いい教育を受けたと思っています」余命1年ほど と言われていた義父は、自宅介護で6年間生きた。鶴瑛さんがベッドの脇で講談を読むと、いつもいい相づちを打ってくれたという。「私は実の父母とは縁が 薄かったけど、夫の両親、特にじいちゃんには本当に全部をさらけ出した。じいちゃんも認知症ではあったけど、すべて受け止めてくれたような気がしているん です。そういう意味では、濃い関係が作れたことをよかったと思っています」 そして今、鶴瑛さんは再び講談に集中している。介護講談を続けるため、より深 く介護を知ろうとヘルパーの資格をとり、介護施設でも働いたという。そのほか、銀冶さんとの掛け合いによる親子ステレオ講談、自分に合った古典にも力を入 れる。「夫に出会えてよかった、講談に出会えてよかった、と本当に思います。父を恨んだり自分が不幸だと思った時期もあったけど、今は全部昇華したよう な気持ち。また、2017年雑誌PHP3月号【ヒューマン・ドキュメント】三度の介護によって、自分がどんな老後を送り、どんな最期を迎えたいかのイメージをはっきりもつことができましたね。 またメディアは、介護の『暗い、辛い』といった面しか取り上げないでしょう? 私は自分の体験から伝えたいんです。『介護って確かに大変なんだけれど、大切な時間なの よ』って」 懐の深い満面の笑み。この笑顔には誰もが魅了されるだろう。
2017年 雑誌PHP3月号【ヒューマン・ドキュメント】