「不まじめ」で行こう 田辺鶴瑛さんのケアノート ~無理しない 面白がる~
講談師の田辺鶴英さん(52)は、実母と義母の介護経験があり、現在は「じいちゃん」と呼ぶ義父の晋さん(88)を自宅で介護しています。その体験を語る介護講談も人気を呼んでいます。自ら「不まじめ」と話す、田辺さんの介護の極意とは―。
聞き手・大森亜紀
最期は自宅で
じいちゃんと同居して丸2年になりました。認知症で寝たきり、要介護度は5。知り合いに「じいちゃんと出会うための結婚だった」と言われるほど、面白いんです。
1990年に義母が亡くなり、寂しくなったじいちゃんは、高齢者同士のお見合いで会った女性と13年一緒に暮らしてました。でも2005年の暮れに、連れ戻しに行ったんです。「寝てばっかりいる」「様子がおかしい」と電話で聞かされたから。でも、じいちゃんは「帰らない」。
その時は自分の足で歩いていたけれど、翌年1月4日にトイレで倒れました。16日朝になって「夜中に大声で騒ぐから連れに来てくれ」と。行ったら、おむつをして手がまひ状態に。後で脳梗塞と分かりました。「病院で検査入院」と説得して連れ出しましたが、大声を出すというので入院させてもらえず、その日から介護が始まりました。
田辺さんは、女性を大声で「バカッ!」とどなる晋さんが苦手だった。それでも3度目の介護に挑んだのは、介護講談を通じて「在宅でみとりたいと思うようになったからだ。介護講談は、棚からぼたもちで始まりました。知人に誘われた介護の勉強会で、母の時の体験を話したら、講談にしてと頼まれた。前座からニツ目に昇進してもらった初仕事でした。
感謝の気持ち
今思えば、最初の介護講談は暗く、介護の大変さだけを話した気がします。義母ははっきりした人だったので、料理下手な私か作った料理を「まずそう」と言う。感情のしこりや嫌な思い出が残っていました。それでも、ロコミで評判が広がり、各地に出前講談に行きました。最期まで自宅で過ごす「満足死の会」の医師など様々ないい人に出会いました。ホームヘルパー2級の資格をとって老人施設でも働きました。介護される側の気持ちも考えるようになって、私自身変わっていった。今度こそ、明るく楽しい、感謝の介護をしたいと思ったんです。
しかし、晋さんの介護は苦難の連続。夫と娘と3人で24時間の介護ローテーションを作ったが、夜中30分おきに「肋けてくれ、水くれ、水」と叫ぶ晋さんにつきあい、クタクタに。夫も「体をかいてくれ」と言い続ける晋さんの体を5時間もかいて腕が上がらなくなった。互いの予定が気に触り、「なんでこんな時にプールに行ってんのよ」とけんかも。
まじめな介護が家族を追い詰めた。「助けてくれ」に起こされて、フラフラになってそばに行ったら、じいちゃんが大声で「なんですぐ来ないんだ、バカッ」。かーっとなって手元の手ぬぐいで、2発たたいてしまった。
じいちゃんは「か弱い寝たきりの病人に手を挙げるなんて、何が介護だ!」。恥ずかしく、情けなくって、お天道様を見られなかった。落ち込んで、知り合いのお坊さんに打ち明けたんです。そうしたら、「人間なんてそんなもん。誰だって同じ立場になればそうする」。救われました。
不まじめでいこう
介護を始めて3か月ほどしたころ、友達で高齢者介護に詳しい看護師の朝倉義子さんが来て、「介護は最期が一番大変。その時にがんばればいい。じいちゃんはまだ5年も10年も生きそうだから」と言った。頑張りすぎ、飛ばしすぎないよう忠告してくれたんです。
それからです。「不まじめ」になったのは。大変な時は逃げる、無理しない。ペットボトルで作った手製の水飲み装置を枕元に起きました。耳栓をして、それでも「助けてくれ」が聞こえたら、ふすまをガラッと開けて「助けに来たぞ、じじい」と叫ぶ。すると、じいちゃんは「おぉ、助かった」。遊びになるんです。
体をかく時も、「手のひらを太陽に」の節で「じいちゃんは今、生きている、生きているからかゆいんだ。でも、死んだらどうなる?」と聞きます。じいちゃんも、のって「死んだら、かゆくない」と歌う。苦を楽に変える遊びの介護が一番私らしい介護なんです。
朝夕30分ずつ日に2回ホームヘルパーに来てもらい、入浴サービスや訪問看護、往診も使います。じいちゃん自身、最初は自分のことを受け入れられず、苦しそうでした。
でも、忘れたのか、あきらめたのか、今では「ありがとう」を何回も言います。おむつを替えるだけで、「ありがとう、ありがとう」。こんな少しのことでこんなに感謝してくれる。
介護は最高の人生の学びの場です。
2008年1月13日(日)の読売新聞より抜粋