●イラスト:田辺銀冶
●出 版:文芸社
●版 型:230ページ/B6版
●定価 1,300円(税込み/本体1,430円)
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第五話「夢話身加護」の土台にしたものです
今から24年前、山形県のサクランボ農家の、穏やかな両親の元に生まれ、何不自由なく暮らしておりましたフジコさん。ミス”ダダチャ豆”にも選ばれたことのあるほどの絶世の美人。
ピアノ・バレー・お茶・お花と何でもこなし、ピアノは合唱コンクールの伴奏に選ばれるほどの腕前。音楽大学に進み、ピアニストになるのが夢でしたが、
「女の子は女らしく、一流の大学を出て、一流の人のお嫁さんになりなさい」
両親に諭され、25才の春、静岡生まれで早慶大学出身、一流のミツブシ銀行に勤める大和太郎さんとお見合いをいたしました。
なるほど、背広はアルマーニ、時計はロレックス、身長180センチ、「これなら、ま、いいか」と結婚。
新婚旅行は憧れのローマへ。ちょうどローマのコロシアムでは、三大テノールのコンサートが開かれておりまして、フジコさん、目を輝かせ、新夫を引きずるようにしてかけつけました。
ところが、会場で夫の太郎さん、コンサートの最中、ずっといびきをかいておりました。食事に行くと、スパゲッティを音を立てて食べる・・・。ついにブチ切れたフジコさん。
「離婚します! あなたと、いっしょにやっていけません!」
「エッ、あの、どうして・・・ なんで・・・?」
「昨日のコンサートではイビキ、今日はざるソバみたいにスパゲッティを食べる。とても、あなたを好きにはなれません! 日本に帰ります!」
急転直下、山形の実家へ。
「もう、ダイッキライ! 離婚するわ!」
「フジコ、女一人じゃ生きてゆくのは大変だよ。それに手に職がないだろ。後継ぎは、もう長男夫婦がいるし、いまさらお前に帰ってこられても・・・」
「分かったわよ、私じゃま者なんでしょ。帰る!」
あおざめて山形まで迎えに訪れた新夫と共に、東京に戻ることにしました。波風の多い新婚生活も、持ち前の勝ち気な性格の強さでこなしていたある日のこと。
「うっ!」と胸がつかえ、「何だろう?」と、あわてて医者へ。
「妊娠ですよ、おめでとうございます」
「そうだ! この子を一流の音楽家に育てよう! 私のようには、なってほしくない。一に胎教、二に胎教だ!」
マリア・カラスだ、ピアノ・バイオリンのコンサートだ、S席5万円のサントリーオーチャードホールだと、足繁く通う。翌年3月3日、玉のような女の子が生まれました。
桃の節句だったから、名前は『桃』、這えば立て、立てば歩めの親心。
「音楽家にするためには、とりあえず芸大よね。教授に個人指導を・・・そうだ! バイオリンのS氏がいいわ」
電話帳で調べ、電話をかける。
「・・・お断りいたします」 そんなことで、めげるフジコではありません。雨の日も、風の日も日参し、
「お願いします。この子は才能があるんです。ぜひ、教えてやってください!」
根負けしたS教授、「分かりました。まあ、通わせてみてください」
さあ、それからというもの、バイオリン一筋。学校のクラブ活動もできない。友達とも遊べない。
「はーい、桃ちゃん、バイオリンのお稽古よ」
「この音ではダメ、やり直し。もっと強くもう一度、もう一度・・・」
「やった、すばらしい音色よ! あなたは天才! そこはフォルテ、それからピアニシモ、もっと優しく・・・いいわよ・・・続けて」
「ただいま! フジコ、桃ちゃん、帰ったよ」
「あら、あなた、もう帰ったの。今、桃ちゃんのお稽古をしている最中、お腹がすいているなら、悪いけど外で食べてきてくださる」
「・・・フジコ、話がある。・・・今日、転勤の話が出た。九州の福岡支店長だ・・・」
「あーら、それは結構な話じゃなくて・・・。単身赴任! 待っていたのよ。ちょうどよかったわ。お互いにそうでしょ、ね?」
邪魔な夫が消えて、ますます桃ちゃん一筋。
私が叶えられなかった夢を、あなたに託します。素敵よ、バイオリニスト桃。芸大を出たら留学して・・・まずはモスクワで優勝して、小沢征爾と斉藤記念オーケストラをバックにソリストよ。あなたなら諏訪外晶子にも負けないわ。夢はどんどん膨らんでゆく。
「先生、桃はどうでしょう?」
「・・・お母さん、このままでは、ちょっと芸大は難しいかな・・・」
「えっ、先生、どうしたらいいんですか?」
「レッスンを増やした方がいいですね。1週間20万、月80万」
「わかりました・・・」
フジコさん、実家に電話をかけました。
「ねえ、お母さん、田んぼ売ってよ。桃のバイオリンのお稽古代が必要なのよ。それにバイオリンも良いものにしないと、コンクールで勝てないわ。一生のお願い! 遺産はいらないから、代わりに今欲しいの!」
田畑を売って、名器ストラディバリウスを手に入れた。稽古稽古の血のにじむような毎日、努力は報われ、晴れて桃にサクラ咲く、芸大入学おめでとう。
しかしね、この話、ここで終わりではありません。これから、本当の話がはじまるんです。
桃は芸大音楽科を首席で卒業し、トントン拍子に留学、もちろん音楽の都、そう、小沢征爾が音楽監督を務めるウイーンフィルの都!
異国の地に一人不安を抱えて旅立った桃ちゃん。言葉の通じない寂しさから日本人男性と同棲してしまいました。このことが母フジコの耳に入り、ロケットのようにフジコがウイーンに飛んできた。
フジコ、二人のいるアパートのドアを蹴破るように開けました。
「桃! あなた何やってるの! こんな薄汚い男と・・・あなたは誰なんですか! 何をしてる人なの? 」
「・・・はー、ボクはウイーンで洋菓子の勉強を・・・」
「まあ、菓子職人の卵ですって! 母さんは、こんな大したことない男と一緒にさせるために、あなたを産んだわけじゃないのよ! あなたは母さんのお腹にいるときから一流の音楽家になると決まっていたの。血迷わないでちょうだい。あなたは母さんの夢だったのよ!」
「・・・」
「母さんはマリアのような声楽家にしたかったけど、あなたに声量が足らなかったからバイオリニストにさせたのよ。 菓子職人が音楽とどんな関係があるの? 今すぐ、こんな男と別れてちょうだい! 」
「・・・母さん、私、昔っから嫌だったの・・・なんで、私が母さんの果たせなかった夢を追わなければならないの? なんで私が犠牲にならなくっちゃいけないの? もうたくさんよ! それに彼に失礼よ! 彼は、とても優しいの。はじめて、一人の人間として愛されてるって実感があるの。私、彼とでなければ生きられない。結婚します!」
「ちょっと・・・あなたのために、どれほどのお金を使ってきたと思ってるの? 実家の田畑、先祖からの大事な土地を売ってまで、あなたに尽くしているのよ、ご先祖さまに申し訳が立たないわ!」
「・・・お母さん、私、お腹に赤ちゃんがいるの・・・」
「何ですって! そんなもの、今すぐ堕ろしなさい。目を覚ましなさい! ほらいっしょに帰るのよ!」
「イヤ! 絶対イヤ! 私はあなたの人形じゃない! 自分の夢を私に押しつけないで! あなたの犠牲になるなんて、まっぴらよ! 母さん、もう、あなたと口も利きたくない! 帰ってよ!」
桃は、お母さんを無理やりドアから出し、ドアに鍵をかけてしまいました。
「桃ちゃん! 桃ちゃん! お母さんを捨てないで! 桃ちゃん・・・うわーん・・・」
しかし、二度とドアは開きませんでした・・・。
傷心で日本に帰ってきたフジコさん。酒に溺れ、毎日ため息をつくばかり。
”ため息は、命を削るカンナかな”などと申しますが、今までピーンと張っていたゴムが切れたような日々。全身から力が抜けたようです。
そんな、ある日の昼、胃が重たくてソファーに横になり、テレビをつけると、奥様方に人気絶頂『みの・もんなし』のバラエティ番組『思い切っていこう!』がちょうどはじまりました。スタジオは奥様でいっぱい。
「スタジオにおいでの奥様方、もっとも典型的な胃ガンの症状は ① 朝、歯磨きのとき吐き気がする ② お腹が、あまり空かなくなった ③ みぞおちに、ときどき痛みがはしる ・・・」
聞いていたフジコさん、ドキッとして顔が青ざめました。
「私、ガンかもしれないわ!」
カラスがカアと啼き、夜が明けると、さっそく、やってまいりましたのが早慶大付属病院。
「やっぱり最先端、一流でなければ・・・なんといっても早慶大よ!」
初診の医師は、頭の薄い、少し間の抜けた感じの医者。
「私はハゲタではなく萩田と申します。ではさっそく検査してみましょう」
バリウム・採血・採尿・レントゲン・検査漬けで、あっというまに一週間。結果を聞きに病院へゆくと、
「大和さん、今のところ心配いりませんよ。ですが、もう一度、検査をさせて
ください。それから、ご家族の方、ご主人の連絡先を教えてください」
「えっ、連れ合いですか? ・・・はあー、いることはいますが、九州に赴任しています」
数日後、ひさしぶりに夫からの連絡。
「早慶大付属病院から電話があって、来週、病院に行くからな」
「えっ、いいのよ、無理しなくても。お医者さんは、今のところ大丈夫と言ってるんだから。まあ、来るならかってにしたら・・・」
夫と来るようにと言われた当日、病院に行くと、別室に通され、萩田医師と白髪頭の院長が出てまいりました。
「落ち着いて聞いてください。実は、あなたはガンを心配して当院に来られたわけですが、検査の結果、やはり進行性の胃ガンでした・・・でも、ご安心ください。当院は、一流の医師と最先端の医療設備が揃っていますから」
フジコさん、その瞬間、気が遠くなり、頭の中が真っ白。それからは院長の声もうつろに、何がなにやら分からなくなりました。
院長は夫に、
「胃ガンは日本人にとても多い病気で、昔は死病として恐れられていましたが、今では決して怖い病気ではありません。大丈夫です。かなり高い割合で快復します。早期の発見であれば、100%の治癒率といってもよいほどです。
しかし、今回、大和さんの場合は、早期ではありません。やや進行しております。進行したタイプの胃ガンを4つに分けまして、胃の粘膜でとどまっているガンをⅠ型とⅡ型、筋肉に達したのをⅢ型、筋肉を破って、外側の奨膜に達したものをⅣ型、別の言い方でスキルスといいます。
奥様の場合は、筋肉に達しているようなのでⅢ型ということになり、場合によっては転移の可能性もあり、必ずしも楽観できません。
とはいっても。これが原因で亡くなられる方は決して多くありません。治療後5年以上、再発がなく、生き延びられれば快復とします。奥さんの場合、その確率は85%以上です」
「でも、どうしてガンになってしまったんでしょう? なぜ、今まで分からなかったのでしょうか?」
「ガンの原因は複雑で、はっきりと分かっていませんが、日本人の胃ガンは塩の取りすぎ、胃の中のピロリ菌というバクテリアが関係していると言われております。また放射線被曝や、食品の化学物質によるガンも少なくありません。これによって遺伝子が傷つけられることがガンの原因になるのですが、それがガンとして現れるまでに20年以上もかかるので、因果関係がはっきりしないのです。
さらに、おなじように遺伝子が傷ついた人でも、免疫力の強い人はガンになりにくいのです。自覚症状も人によって極端な差があります。神経質な方では、強い症状を覚えますが、のんびりした方ですと、ひどく進行していても気づかないことが多いのです。
では治療法の説明ですが、手術によるガンの摘出が基本で、これは転移の可能性のある周辺のリンパ節も含めて行います。初期の小さなものなら内視鏡でも切除できますが、奥様の場合は、手術が必要となります。
そして、再発防止や、手術で取りきれなかったガン細胞をやっつけるために抗ガン剤投与や放射線照射を行います。治療にあたっては、この萩田君が主治医なので、彼に任せてくださいね。手術は早慶大教授、阿部外科部長に執刀していただきます」
「先生、手術の後は普通に生活できるんですか?」
「まあ、胃が小さくなるわけですから、完全に元通りというわけにはゆきませんが、3分の2は元のように食べられます。それほど心配する必要はありませんよ。入院期間は、状態にもよりますが1~2ヶ月でしょう。治療のほとんどに保険が適用されますから、経済的負担は、あまり心配なさらなくて結構ですよ。
「治る見込みが85%と聞いて、なんだかホッとしました。どうぞよろしくお願いします」
ということで、その日から、さっそく入院したフジコさん。
「ねー、あの萩田先生って、くだらないダジャレを言ってね、どうもうさんくさいの。どこの大学出てるのかしら?」
「何でも、津軽大学医学部とか言ってたぞ」
「えっ、津軽大学? 聞いたこともないわよね。津軽って地の果てじゃないのー、どこが一流なの? イヤだ」
さて翌日、二人部屋に移されることになりました。
「胃ガンでお世話になる大和フジコです。どうぞ、よろしく」
「あ、そう、私は中田マキコ、肝臓ガンなの。飲み過ぎが原因かしらね。肝臓を手術したんだけど、この抗ガン剤や放射線・・・もう参ってるの。あー疲れた。あーしんどい。医者は成功したっていってるけど、どうも信用できないわ。だって、吐き気とか腹痛で、毎日具合が悪くってね・・・」
「はー、そうなんですか・・・。でも、お医者さんを信用しないと、良くなる者も良くならないんじゃないのかしら?」
「あら、信用できるものなら信用するわ。私だってヤミクモに非難してるわけじゃないのよ。あなたも、自分がやってみれば分かるわよ」
痛い痛いっていう割には元気だと思いながら、
「いつもナイトキャップしてるけど、どうしてですか?」
「見て、これ!」
「あっ、髪の毛が抜けてる! 私も、こうなるかもしれないの?・・・」
「だからね、私も悪いこといわないから、那須塩原に喜楽診療所ってところがあって、東洋医学と西洋医学を融合させて、気功・漢方薬・音楽療法・イメージ療法を取り入れて、それから患者がやってみたいという代替医療も併用させてくれるのよ。大和さん、一度見学にいってみない?」
マキコさんに強引に誘われ、しかたなく行くことに。新宿から高速バスで3時間も走ると、そこは、もう塩原温泉郷。ホウキ川に沿って歩くと、
「あそこよ!」マキコが指さす方を見ると『那須塩原ベルサイユホテル』
「えっ、違うわよ、その隣よ!」
「ゲッ! 隣って、まさか、この汚い木造二階建て?」
そこには、まぎれもなく喜楽診療所と書いてある。
「こんなの大丈夫なの?」
風化した粗末な医院のドアを開けて、座っている先生らしき人を見て、またびっくり。TVに出てくる、『みの・もんなし』にうり二つ。
「私、ここの院長で『箕田』と申します。さあ、どうぞこちらにおかけください」
「ここでは髪の抜ける副作用の出るような療法は行いません。医者に見放された末期ガンの方でも、元気に退院してゆかれる方もおりますが、手当が及ばず、亡くなられる方もおられます。
大切なことは、どれほど心の満足を得られるかだと思っています。人は必ず死ぬのですから、よりよい死をめざすべきだと私は思います。
うちに来れば、ガンが治ると誤解して来られる方もいますが、特効薬はありません。ただ、閉塞感のなかで死んでゆくのと、何か可能性を見いだすのとでは大違いですね。
私は、医者は病気を治すのではなく、治るきっかけを与えるだけだと思っています。今、向こうで気功教室をやっています。どうぞご見学ください」
入ってみると、20畳ほどの広間で、中年の先生がステテコ・腹巻き姿で患者相手に説明をしております。
「まず、はじめに『気功』の『気』について説明します。
人の体は、血液やリンパ液などの体液が循環して健康を守っていることはご存じですね。この流れが滞ると、代謝で生じた毒物が排泄されず、栄養も供給されないので、具合が悪くなります。ガンにかかるのも、このためです。
この体液がすみやかに流れるために、目に見えない『気』というものが体を循環し、それが体液を誘導するように巡らせ、健康を守っていると考えるのが『東洋医学』です。
『気』というものが、本当に実在するか? 西洋医学では疑ってきました。いまだに信じない医者の方が多いと思います。それは西洋医学の伝統が、目に見えるものだけを信用したからです。
しかし、東洋医学では、目に見えない気の流れを実感し、鍼灸や漢方薬、気功、按摩、指圧などで気の流れを整えて病気を治す方法が何千年も前から普及しています。もし気の実在を疑うようでしたら、気というものが本当にあるのか? 感じるためのテストをしてみましょう。
まず、両手のてのひらの力を抜いて、20センチくらい離して向かい合わせてください。今度は2センチくらいまで近づけてください。これを何度も繰り返していると、てのひらから気が出てくるようになります。
手のひらの表面にピリピリした気の流れを感じませんか?」
「感じます! ピリピリしてきました。それに、頭のなかに圧迫感があるわ」
「これだけでは暖かいのとピリピリした感じしか分かりませんが、本当に気が出ているのなら、なんらかの作用があるはずです。
実は、気には痛みを取る作用と、体液を循環させ、細胞をゆるめて伸ばす作用があるのです。あなたが右利きなら、左手が気によって伸ばされているはずです。両てのひらの長さを比べてごらんなさい。これで気の作用を目で確かめることができます」
マキコさん、てのひらを合わせて長さを見ますと、
「ギャー! ヒエー凄い! 左手が2センチ以上伸びてる! どうして左手だけが伸びるんですか?」
「これは、『気』が利き手から強く出るという性質があるからなんです。昔から『手当』という言葉を使いますね。これは痛い部分に手を当てると痛みが和らぐからなんですが、実はてのひらから出る気が作用しているんです。
足でも同じように伸びます。同時に、その部分の血流が増します。あなたは少し弱っているので、丈夫な人よりもたくさん伸びるんですよ。
『気功』は、全身の気の循環を助けるための体操です。『気は意念にしたがう』といって、意識して思う場所に気を巡らせるところが普通の体操と根本的に違うところです。意識して、悪くなった部分に気を導くのです。
ガンになっている場所は、気や血の巡りが悪く酸欠を起こしています。ガンは酸欠の異常な状態でしか生育できないんです。ですから、その部分を強く意識し、これを『意守』といいますが、特別に気を流してやることで、ガン細胞は体液に吸収され消えてゆくのですよ」
ここまで聞いたマキコさん、
「あたし、ガンをなんとかやっつけてやりたい! ここに決めた! フジコさん、さっきからうつむいてるけど、どうしたの?」
「悪いけど、私、こういうのダメ。信用できないの・・・先生、あの失礼ですけど、出身大学はどちらですか?」
「はあ、鍼灸専門学校と、中国に留学して勉強しました」
「まっ、専門学校! マキコさん、私、失礼します」
フジコさんは早慶大付属病院に戻ってきました。フジコさん阿部教授に顛末を報告します。
「なに! 気功? 鍼灸? そりゃシロウトだ。あんなもんに何が分かる。迷信だ! ガンがそんなオマジナイで治るわけがないんだ!
アンタの隣のベッドの中田ナントカってのは、女の分際でズケズケものを言ってけしからんやつだ。副作用がイヤで転院したそうだが、それは担当医がバカで、副作用緩和薬が足らなかったせいだ! 苦痛があっても、それを和らげる薬などいくらでもあるんだ!」
その翌日、フジコさんは手術と相成りました。
「フジコさんの手術は成功しました。予想より広がっていたので、少し余分に取りましたよ。リンパも完全に郭清したし問題ない。放射線も始めましょう」
手術を担当したのは、訓練を兼ねて阿部教授の門下生の新人医師でした。その際、切除部位をまちがえて余分に取ってしまったのですが、これはシー・・・。
抗ガン剤、放射線の影響で、吐き気とだるさがフジコさんを襲います。
「痛い、苦しい! 先生、看護婦さん、助けてください!」
やってきたのは萩田医師、ニコニコ・・・笑っております。
「では小咄をひとつ」
「お坊さんが通るよ」
「ソウかい」
「隣の空き地にカコイができたってねー」
「かっこいい!」
「隣の空き地にヘイができたってねー」
「へーえ」
「ここ、台所にしましょうか」
「かってにしな」・・・
「先生! あなたは私をバカにしてるんですか? 私は痛いんです、苦しいんです、何とかしてください!」
「はいはい、分かります。でも、笑いには免疫力を高める力があるんですよ。生きがい療法を研究しているんですけど、ユーモアスピーチというのがありましてね。自分の体験を話にまとめます。
日々、何かネタはないかと自分の回りの広い世間に注意が向けられます。また一週間、面白い話をつくろうと生きる目標ができ、スピーチをするときには、今現在、この時間に話すことに打ちこむ。『今を一生懸命に生きる』という体験になります。
さらに、自分の話を笑ってくれる人がいることで、人の役に立てたという社会参加の体験。生きている手応えを感じることにもなります。
また、人前で話すということは、緊張もしますが、さまざまな心配や不安に上手に対処するコツを疑似体験することができます。
ユーモアスピーチを考えて話すということは、心を前向きにする効果があるのです。これが注射や投薬と同じように、ガンや病気治療に効果があると思っているんですよ。
「でも先生のユーモアは、全然面白くないわ・・・ところで、私、腰が痛いんです。なんとかしてください!」
「そうですか、あなたは仕事が忙しいでしょう?」
「えっ? ? 」
「あなたの病気は、仕事を控えめにしなければなりません。仕事がヘルニア治ります」
「もう、いいかげんにしてください! 阿部先生、助けてください!」
「キミィ!、どうしたんだ?」
「先生、この医者、くだらないダジャレばかりで人を笑いものにして・・・苦しい・・・痛い・・・何とかしてください!」
「萩田君! いいかげんにしたまえ! 担当を変えるから」
「大和さん、私が新しい主治医のオオツキです」
「このオオツキ助教授は大丈夫だ。いたって真面目だから」
「オオツキ先生・・・苦しい・・助けてください」
「はいはい、とても良い薬があります。すぐに楽になりますからね。この0801という薬は人には見せないようにしてね・・・」
言われて飲むと、アーラ不思議、みるみると痛み、苦しみから解放されるのです。
次の日、単身赴任の夫が、
「転属願いを出した。降格になるが、東京に戻るよ」
「えっ、無理しなくていいのに。私たち夫婦は、もうダメよ。私、そんなに長くなさそうだし」
「桃から連絡は?」
「知らない、あんな子! バイオリンを捨てて・・・あなた、子育てに失敗した私を見て、イイ気味だと思ってるんでしょ・・・あーあ、人の苦労も知らないで、どいつもこいつも・・・イタッ、イタタ・・・看護婦さん、あの薬、薬・・・お願い!」
「大和さん、この薬キツイからね、あんまり・・・」
「じゃあ、さっさと殺してよ! 何が治るのよ! よく言うわよね。何もしてくれないくせに、このヤブ医者!」
看護婦、あわててフジコさんに薬を飲ませます。
「フジコ、落ち着きなさい。八つ当たりしても苦しくなるばかりだ。君は大変な状態だが、世のなかには君以上に苦しい思いをしている人も大勢いるんだ。
アフガンの民衆を思いなさい。アフリカの飢えた子供たちを思いなさい。いや、私だって、君がこうなって、君や娘のことに無関心だった自分が恥ずかしく、とても苦しいんだ。人は、誰でも、みんな死に向かって歩いてゆくんだよ。その意味では、病気で死んでも事故で死んでも、寿命で死んでも同じじゃないか。大切なことは、よりよい今を過ごすことじゃないか?
フジコの病気は85%治ると言っているんだから、あせらずに治そう。治ったら、君をふるさとの山に連れていってあげたい。いっしょに、山の景色を見て歩こう。 今度、土日で子供の頃よく登った静岡の山に行ってみたい。月曜には、また来るからね」
フジコさん、薬が効くと穏やかになって、痛みも苦しみも忘れたようです。
「山? 登るの、あなたが?」
「うん、学生時代は山岳部にいたんだ・・・」
「へー、初耳だわ。もっとも、あなたと、あまり口を利いていなかったものね・・・こんなして、ゆっくり話すのってはじめてかしら・・・」
「ふるさとの山は『京丸山』ていうんだ。春になると、アカヤシオの花で山全体が赤く染まるんだよ。それに、60年に一度咲くという京丸ボタンの伝説がある山なんだ。直径が1メートルもある白いボタンの花だそうだ。
「アハハハ、あなたってロマンチスト。でも、こっちは大変な現実よね」
それから三日後・・・
「大和さーん、郵便ですよー」開けてみれば、夫からのハガキ。
『京丸山は子供の頃と全然変わっていない。だが、京丸ボタンの咲くという京丸谷は一面、伐採されていた。それを見たとき、息が止まりそうになった・・・営林署というところは・・・私は、これからボタンの咲く険しい谷の奥に行ってみるつもりだ・・・』
「あら、今度は環境問題? ヒマな人・・・」
『来年のゴールデンウイークには、赤く染まったこの山を君に見せたい・・・体を大切に・・・太郎』
「ふんっ、来年なんか、こっちは死んでるわよ・・・」
それから、しばらくして、
「大和さーん。お電話ですよ」
「ハイッ、今出ます」
「静岡県警ですが、大和太郎さんとお知り合いですか?」
「はい、私の夫です・・・何か?・・・」
「・・・お気の毒ですが、昼過ぎに、崖から転落してお亡くなりになりました。危険な谷を登られたようです」
「えっ、ウソでしょ!・・・」
フジコさん、放心状態。ベッドに横になったまま、あふれる涙をぬぐおうともしない。
「私がバカだったの・・・こんな、いい人だったのに・・・どうして、もっと大切にしてやらなかったの・・・あの人が死んで、死に損ないの私がどうして生きているの? 神も仏もあるものか・・・ウワー・・・あなた・・・」
泣いて泣いて、泣きもだえて、涙も涸れたころ、フジコさんは、看護婦に支えられ、タクシーで特別に通夜の家に一時帰宅しました。
ケンカ別れしてから音信不通になっていた娘が帰国して来ていました。
「桃、赤ちゃんは産まれたの?」
「ええ、男の子よ、お父さんが『一郎』って名付けてくれたのよ。母さんに内緒で、留学中、ずいぶん私たちを支援をしてくれたの・・・赤ちゃんは、今、彼が面倒を見てるわ。ところで、母さん、どうしたの? 病気なの?」
「桃ちゃん、お願いがあるの。このストラディバリウス、あなたが送り返してきたのを私が売ろうとしたんだけど、父さんが、ずっと持っていたのよ。必ず、また弾きたくなるからって。これで父さんの好きだった曲を弾いてくれる」
桃は父の遺影に向かって、涙を流しながら好きだったモーツアルトを弾きました。美しいレクイエムが流れると、集まっていた父の友人や親戚一同も涙、涙・・・。
「桃、ありがとう、とってもよかった・・・」
「嫌だ、頭なんか下げないで・・・これから、どうするの?」
「あなたは知らないでしょうけど、私は胃ガンで入院してたの。でも父さんが死んだっていうんで、痛いのも苦しいのも忘れてしまっていたわ。
何もかも失って、もう何も残っていないわ。命も、あといくらも残ってない・・・」
フジコさん、涙に暮れる娘を振り返りもせず、看護婦といっしょにタクシーに乗って、そのまま病院に帰ってきました。
待合室がずいぶん騒がしい。「なにかしら」と覗くと、
「あら、萩田先生、まっ落語やってるの? 若い先生なのに老けて見えるわ。でも・・・アハハハ・・・おかしい! あたし、こんな不幸のどん底なのに笑ってる。なんでだろう? 悲しい、辛い、痛い、でもハハハハ・・・おかしいわ、笑うと痛みが和らぐわ。
萩田先生、ごめんなさい・・・あなたのやろうとしてたことが、やっとわかったわ。ありがとう!
あたし、生かされているんだね。同じ生きているのなら、楽しい方がいいものね」
その後、抗ガン剤や放射線の副作用で、フジコさんの病状は悪化する一途。やせ衰え、豊かな頭髪も抜け落ちて悲惨な有様。0801という薬が切れようものなら、苦痛に身もだえて半狂乱状態。
毎日、見舞いに来るようになった桃の素人目でも、これが何の薬かうすうす感づきました。
「お母さんは麻薬の力で生かされているのね。もう助からないかも・・・」
「桃、ゴメンね・・・私は間違っていたわ。私のつまらない夢のために、あの人や、あなたを苦しませてきたのね・・・私、一流になることが人生の目標だと思っていたけど、間違っていたわ。もっと大切なことがあったのね・・・私が苦しむのも、その報いなのね・・・」
「お母さん・・・」
自分の人生を反省するようになったフジコさんでした。
そんなある日、塩原に転院した中田マキコさんが、元気に見舞いに訪れたのでした。
「あらマキコさん、お見舞いありがとう。あなた、とっても元気そう。髪の毛も元通りにふさふさ生えて・・・」
「フジコさん。ひどいわね、かわいそうに、このままでは死んでしまうわ。この病院にいたら殺されてしまうわよ。阿部教授は患者を人体実験に使うって噂があるのよ。フジコさん、悪いこといわないから、私のいる喜楽診療所に転院していらっしゃい。すばらしいところよ。毎日が楽しくてしかたないわ。あそこなら、たとえ悪化して死ぬことになっても、気持ちよく死ねるわよ」
フジコさん、とうとう、この病院に見切りをつけて、マキコさんと桃の熱烈な勧めで、喜楽診療所へ転院することになりました。
救急タクシーでマグロのように診療所に担ぎこまれたフジコさん。連れていかれた部屋は、檜の香り高い板張りの個室でした。窓の外には那須連峰の景観。
「・・・すばらしい山の景観、檜の香り、温泉、こんなところで死ねるなら本望だわ・・・山ってステキ・・・あの人が行きたくなったわけよね・・・」
翌日から、箕田院長の指導の元、漢方薬と鍼灸、気功の治療がはじまりました。診療所の地下には那須塩原温泉が沸いていて、一日3回の入浴だけでも、とっても気持ちがよかったんです。放射線や抗ガン剤に苦しんだ、これまでの病院の治療とはエライ違い。
それでも、それまでの治療によって蓄積したダメージが大きく、フジコさんは死線をさまようような毎日。一番辛いのは、0801という薬を減らされたことでした。
「フジコさん、あなたはモルヒネ漬けにされていたんです。いきなり止めたのでは苦しさのあまり死んでしまいますから。少しずつ減らして、体を慣らしましょう。麻薬と戦うんですよ!」
と院長。フジコさんは、手術の後遺症と、治療の副作用と、麻薬中毒の三つを相手に戦わなければならなかったんです。
なかなか容態の回復しない母親を見て、娘の桃は言いました。
「母さん、私、母さんの夢をかなえてあげるわ。チャイコフスキー記念コンクールにエントリーして、必ず入賞するわ! 本当をいうとね、バイオリンを止めたわけじゃなかったのよ。父さんの勧めで、ずっと練習はしてたの、きっと、父さんもあの世で応援してくれるわよ・・・」
桃は、母親を元気づけるために再び音楽家への道を歩みはじめ、コンクール出場のためモスクワに旅立ちました。
一進一退の容態が続くフジコさんに、ある日、うわずった声で電話がきました。
「MHKテレビ局ですが、大和桃さんのチャイコフスキーコンクール準優勝おめでとうございます。日本人初の快挙です! ぜひお母さんを取材させてください」
「えっ、桃が準優勝!・・・私の夢を実現させてくれたのね・・・」
フジコさん、天にも昇る気持ちで、あれほど苦しかった痛みも麻薬の禁断症状も吹っ飛んでしまい、見違えるほど快活になりました。みるみる病状が回復してゆきます。
コンクールから帰ってきた桃とならんでテレビ局の取材を受けるフジコさん。
「生きていてよかった・・・」
やがて、気功や漢方治療の効果も出てきて、フジコさんは健康を取り戻してゆきました。桃は小沢征爾の指揮で行われるバイオリン協奏曲コンサートの練習に忙しい毎日です。今、フジコさんの膝の上には、可愛い盛りの一郎君がやんちゃしています。
「『一郎』・・・、なんていい名前だろう。おまえは、あのイチローのように超一流になるのよ! 末は、野球選手かしら、でも、中田英俊もいいわね。うーん、おばあちゃんの趣味では、やっぱり小沢征爾になってほしいわ。今から教育しなくっちゃ! 誰に頼もうか・・・」
・・・??
介護保険が導入されてから、安心して介護を期待できるか? といえば、むしろ逆のようです。官僚主導による介護システムの確立は予想通り裏目に出ています。老人の経済的負担は増すばかりなのに、介護の現実は、法律やマニュアルの遵守が優先になってしまい、一番肝心なお年寄りの気持ちを汲んだ暖かい介護が忘れ去られてゆきました。お年寄りたちは、まるで製品のようにマニュアルで管理されるようになりました。
こんな現状では気持ちのよい老後など望めそうにありません。弱ったときアテにできるところなどありませんから、ピンピンンコロリとゆきたいのは、どなたも望むところですが、不幸にも病気になることも覚悟しなければなりません。でも、病気をきっかけに、フジコさんのように新しい出会いがあり、新しい生き方を学ぶチャンスがあるとも言えなくもないのです。
人は誰でも必ず死にます。この点で人類は無条件に平等です。誰でも、遅かれ早かれ、同じ死に向かって歩いてゆくのです。ならば、フジコさんの旦那様が亡くなる前に言った「今を大切に生きること、よりよい今を過ごすこと」こそ、私たちが求めている人生の本当の解答なのではないでしょうか?
人は、目的地にたどり着くために生きているのではありません。歩いている今のために生きているのです。
病気になっても、医者は治すきっかけを与えてくれるにすぎません。大切なことは、治そうとする患者の意志です。治すのは自分です。『医師』ではなく『意志』が病気と格闘する過程のなかに人生の目的が凝縮されているように思えるのです。
人が生きる喜びを真に感じるときは、健康なときよりも、むしろフジコさんのような立場に置かれたときなのではないでしょうか?
この話をつくるキッカケを与えてくださったのが、『満足死の会』の主催者で、高知県佐賀町にある『挙の川診療所』の疋田善平先生です。
先生は、もともと京都で結核医をされておりましたが患者が減り、思うところあって人口4500人の佐賀町の医者になりました。
結核医時代、治療とともに多くの遺体を解剖し、薬では病気は治りにくいと実感し、生活レベルでの予防こそ医療の本質だと悟ったのです。
検診の際、町民の趣味、家族構成など多くの情報を集めます。はじめのうちは患者も少なく、ニーズは夜間の往診ばかりでした。翌朝、看護婦さんに
「夕べの患者さんはどうしたのかな? なぜ来ないのだろうね」
「隣町の医者に行かれたんじゃないですか? 」
実は、それまでは、この診療所に、大学出たての若い医者ばかりが腰掛けで来ていたので、町民が愛想を尽かしていたんです。悪いことに、疋田先生は商売気がない。風邪の患者が来ても、
「先生、注射か薬を・・・」
「風邪に本当に効く薬はないんだよ・・・二、三日ゆっくり休みなさい」
「家族は何人? 好きな食べ物は? どんなとこに住んでるの? どんな仕事? 」
薬は出さない、注射も打たない。本当に必要な治療以外はやらない主義でした。病気のことよりも、どうでもいい他のことを根ほり葉ほり聞く。とんでもない藪医者だと閑古鳥が鳴いたのです。
しかし、やがて、話がおもしろい、なんでも話をできる先生だと評判になり、少しずつ患者も増えてきました。
疋田先生は、患者に対し
「病気になってからでは遅い。予防こそ大切なんだ」
と教えます。過労を避けろ、脳卒中になりたくなければ薄味に慣れろ。心筋梗塞になりたくなければネギを食えと細かく生活指導をします。
今では、この町では特養ホームの入居者が減り、住民の多くが自宅の畳の上で亡くなっています。元気で働く老人も多いのです。もちろん夜中の往診もする。最期を看取ってくれる、心のよりどころとしての医者なのです。
ある一人暮らしのお婆さんが寝たきりになりオムツの世話もままならない。看護婦・保健婦も高知市内の病院に行くよう勧めたが、ガンとしていうことを聞かない。
「家で死にたい・・・」
と言い張るので理由を聞くと、窓から見えるお墓を指さし
「お母さんのお墓の側にいたい」と
幼いころから家庭の事情で、ずっと親元を離れて暮らしていたので、最期くらいは側にいたい。下の世話も、なにも望まない。家にいるつもりだと言うのです。
本人の満足する生き様が満足の死につながると、疋田先生は、このお婆さんの一人暮らしを理解しました。
その間、毎日の往診、ヘルパーさん、看護婦さん、地域住民の協力のなかで、お婆さんは幸せそうに亡き母の元へ旅立ちました。
そんな活動のなかから『満足死の会』が生まれたんです。
『満足死の会』とは、「エライ先生にお任せする」高度医療だけが幸福の選択ではない。自分の生命を医者に任せきりにするのではなく、自分で、ふだんから食事・運動・仲間づくり・よい医者・地域福祉、すなわち生き甲斐を、共に育て、学び、人生を楽しみ、満足して死のう!という会なのです。
豊島区、重光会佐藤医院の細野皓之先生が『満足死の会東京支部』です。