月刊『倫風』7月号に紹介記事が掲載されました「見守り」「待ち」「寄り添う」子育て

2019年7月15日

『母娘対談 いろいろあったけれど、うちは絶妙な距離感で』

倫風夢や仕事、そして親の介護にエネルギッシュに励んだ母親。忙しい母親にべったりではなかったけれど、肝心な時に母に背中を押してもらった娘。時が経ち、同じ講談師の道を進むお二人に、過去を振り返りながら互いの思いを語っていただきました。

田辺鶴瑛(母・講談師)
田辺銀治(娘・講談師)

◇ プロフィール ◇

●たなべ・かくえい 北海道生まれ。講談師。札幌藤女子短期大学卒業。実母を介護して看取り、その後、草間彌生の助手を務め、さらに女優を目指すも断念。結婚し一女に恵まれる。義母・義父の介護をしながら、田辺一鶴に師事、入門。介護講談などで人気を博す。著書に『ふまじめ介護』(主婦と生活社)などがある。

●たなべ・ぎんや 東京都生まれ。1992年に母と同じ田辺一鶴に入門、ちびっこ講談で人気者に。高校に通いながら修業をする。卒業後は、ニュージーランド、韓国、ニューヨーク、ロンドンなどを遊学。帰国後に講談協会に復帰。師匠没後は母、鶴瑛門下に。2011年に二ツ目昇進。新作講談を発表し、さまざまなイベントで活躍中。

倫風

=====伝統芸能である講談の一派である田辺一門。そこへ35歳の時に入門した、田辺鶴瑛さん。それは、のちに同じ講談師となり、一緒に「母娘会」を催すことになる一人娘の銀冶さんをどう育てたのか。

鶴瑛(以下、鶴):私が27歳でこの子を出産した時は、とにかく不安だった。その頃は、芸術家の草間彌生さんの助手として働いていて、仕事中心の生活だから、妊娠中も子供を産んで育てるということがプラスには思えなくて。でも、最初におっぱいをあげた時に心から「かわいい!」と思ったのよ。
しばらくして娘が幼稚園に通うようになった頃、義母が倒れて介護をする生活に。今でいうダブルケアね。小さい子を抱えて家族の身の回りのことをしながら、義母の介護に奮闘する日々で、それはもう大変。「私はこんなにやっているのに、あなたたちは食べるだけ!」と、家族に対して不満が溜まって、たまにそのストレスが爆発してお父さん(夫)に八当たりするなんてことも……(笑)。

銀冶(以下、銀):子供の頃は母が苦手だった。私は家にいたいのに、母は外に行きたがるから。その頃、外国人をホームステイで招いて交流したりする「多言語を話す会」というサークルに入っていたよね。その外国の人たちと観光地に行ったり、アウトドアに繰り出したり。でもそれが全然楽しくなくて……。

鶴:育児と介護で余裕がないのに無理して受け容れていた。アウトドアも得意じゃないのに行くから楽しめない。嫌々やっているのが伝わるのか外国人も喜ばない。ツボを外してたんだろうね(笑)

銀:強烈に印象に残っているのは、幼稚園の時のこと。着替えなどを入れる手提げバックを手作りしてくれたの、覚えてる? ほかの子は、かわいいクマやウサギなんかのアップリケをつけているのに、母が私に作ってくれたのは何と山んば! しかも舌先が三つ股に割れてベローンと飛び出しているものすごい鬼の形相 (笑)。今なら、それも芸術的だと思えるけれど、当時は嫌で仕方なかった。「私のは、何でウサギさんじゃないんだろう?」って。

鶴:あったね! 私、「鬼」が得意なのよ(笑)。そういや「夕飯なあに?」と聞いてくると、「うるさい! 何だっていいでしょ!」なんて怒鳴ったこともあったね。今思えば、かわいそうなことしたなと。

銀:母には理不尽に叱られた思い出しかない(笑)。今はずいぶん穏やかになったよね。芸術家だからエネルギッシュだし、介護もあったし、そうなるのも無理はなかったのかな。

鶴:子供の成長を楽しむ余裕がなかったのよね。私にはやりたいことがあって、それが何かはまだわからないけど、夫も子供も全部「私の邪魔をするもの」というのが当時の正直な感覚だった。

=====ダブルケアで多忙な鶴瑛さんが、それでも折れなかったのは、同じ芸術家の夫の存在が大きかったようだ。

鶴:とにかく友達を作ってやらなくてはと思い、近所の公園を渡り歩いていたよね。そこにはお金持ちの家の親子も来ていて、4、5歳ぐらいになると、「私立小学校には行かせないの?」なんて言われるようになった。受験だの塾だのという話が聞こえてくると、うちはどうしようかと不安になる。私は「子供は親がレールを敷かないで育てたほうがいい」と思っていたし、私自身が母からことあるごとに「勉強しなさい」と言われて育ったから、自分の子供には言いたくなかった。でも、進学の情報とかが入ってくるとその都度、不安にはなる。その時、お父さん(夫)が話を聞いてくれて、「本人が選べばいい」と言ってくれて安心したのよね。うちは夫が聞く耳を持って、家族の軌道を定めてくれた。仕事が忙しくて相談乗ってくれない夫だったら、私一人では無理だったと思う。

銀:そうだね。父はとてもやさしい人で、愛情をたっぷり注いで私を育ててくれたから、母にかまってほしいという思いはなかった。

=====銀冶さんは小学生の頃から講談を習い始めたものの、高校まででいったん区切りをつけ、別の道を模索する。そこへ鶴瑛さんが「海外に行ってみたら?」と提案した。

銀:最初に行ったのはニュージーランドだったけど、行ってみたら毎日が異文化交流で楽しかった。でもその時に、周りの人から日本のことを聞かれて何も答えられない。同じ年くらいの子が自分の国のことを誇らしげに生き生きと語っている姿を見て、単純にかっこいいなと。それで日本のことを見つめ直した時、「ああ、私には講談がある」と気付いて、この世界に戻ることにした。

鶴:私があなたに「海外にでも行って来たら?」と言ったのは、違う世界を見たほうがいいと思ったから。冒険して、一皮むけて、大きくなってほしかった。

銀:「ずっと『あなたは自分の道を見つけなさい』と言われて育ったのがよかったと思う。「勉強をしなさい」とか、「どこどこの学校に行きなさい」と言われたこともなかったし。勉強が好きだったらやればいい、という感じだったもんね。

鶴:「多言語を話す会」に入ったのも、あなたがいろんな人に会い、いろんな場所に行き、自分の好きなもの、自分に合っていることを見つけるのがいいだろうと思っていたからよね。

銀:将来、子供ができたら、同じようにいろんな所に連れて行ったり、いろんな人に会わせたいなと思う。そして、本人の好きな道を進んでほしい。親がするべきなのは、子供が好きなことや、やりたいことが見つかるように見守ることだけよね。そう考えると、嫌だ嫌だと言っていた子供の頃のことも、今思えば私にとっていい経験だったんだね。
母みたいな、こんなに個性的でわがままな人はなかなかいない。世の中にはいろんな人がいるというのを間近で経験したので、今、大人になってどんな人に会ってもまず驚かないもの(笑)。さまざまな親子の形があってよくて、うちは個性的だけどそれがよかったと思う。

鶴:そう? それならよかった。母親は子供にくっつき過ぎないほうがいいというのが私の考え。私が18歳の頃に母が病に倒れた時、過干渉な母だったから、ある意味で「開放された」と思った。だから、今私が世のお母さんたちに伝えたいのは、何も悩むことなどなくて、子供の特性に合わせて、その子がやりたいことをとことんやらせればいいということ。
そのためには、母はまず自分の幸せを一番に生きること。私はそうやって生きてきたから。自分が生きている喜びを、背中で教えることよ。子供は何を望んでいるかというと、母の笑顔が一番なんだから。

倫風

2019年 月刊『倫風』7月号より