産経新聞の「向き合って」欄に紹介記事が掲載されました。

2005年7月1日

母・義母の介護を振り返って ~三度目は悔いないように…~

聞き手 永栄朋子

産経新聞の「向き合って」講談師の田辺鶴英さん(49)は、若くして母と義母の介護を経験しました。終わりの見えない介護生活。感情を押し殺し、心を閉ざしてしまった田辺さんは、講談に出合って変わります。人の命を預かるのは重い。葛藤があって当たり前、下手な介護でいい。そう語る田辺さんの体験を聞きました。

介護が嫌なら「できない」といえばいいのに、鬼にはなれない、いい人そうに振る舞ってしまうのですね。母と義母、どちらのときもそうでした。でも腹が据わってなかったから、葛藤は大きかった。介護をするには若すぎました。
最初は母でした。脳腫瘍と診断され、手術で開頭したら実は脳動脈瘤。専門医がおらず、いったん頭をふさいだら、脳圧があがって植物状態になってしまいました。私が18歳のときでした。
母はとてもきれいな人でね。でも、私が中学のころからたびたび頭痛を訴え、身なりに構わなくなってしまったのです。どこの病院でも頭痛の原因は分からず、しまいに自律神経失調症と診断されました。私はそんな母を受け入れられず、冷たくしてしまいました。それだけに母が植物状態になったときは後悔しました。介護のために東京の学校を辞め、北海道に戻ることにもためらいはありませんでした。
でも半年、一年とたつにつれ、いたたまれなくなりましてね。友達はボーイフレンドの話なんかしているのに、自分は来る日も来る日も病院に泊まり込んで、母のおむつ換えや体位交換…。
1人っ子で頼れる兄弟もいないし、父は父で愛人をつくって「早くお母さんを施設に預けて学校に行ったら」なんて言う。入院が長引くにつれ親切だった親類も来なくなり、一人病室に残され、周囲の薄情さに呆然としました。
心の中では「なぜ私ばっかり」「早く死んでくれればいいのに」と、そんなことさえ思いました。でも負けず嫌いだったから、誰にも愚痴も弱音も吐けませんでした。
四年後に母が亡くなったときは正直、ほっとしたものです。

二度目の介護は32歳のときでした。義母が腎不全で倒れたのです。いい妻いい嫁でいたかったからすぐに同居。でも私のすることと義母の望むことが合わず、半年もしないうちにストレスで煮詰まってしまいました。
今思えば「押し付け介護」でした。無理に玄米を食ぺさせたり、きれいな花が咲いているからと車イスに乗せて連れて行ったりね。義母はそんなこと望んでいなかったのに、喜ぶはずだと思ったの。でも全然うれしそうじゃないから、ムカーッとしてね。
育児や親父の世話もあったし、親類が「やさしくしてあげて」なんて口だけ出すから、心の中はまたしてもどす黒い感情でいっぱい。
講談に出合ったのはそのころです。新聞で田辺一鶴師匠が道場を開いたという記事を見つけて、飛び込みました。大声で練習しているとストレスも吹き飛びました。すぐに夢中になり、義母が亡くなった翌年の平成3年に講談師になりました。介護講談をやるようになったのは約十年前からです。
順風満帆ではなかったですよ。特に古典講談はしっくりこなくて、観客から「苦しそうだから見たくない」とまで言われ、何年も悩みました。
吹っ切れたのはあるテレビ番組がきっかけでした。自閉症の子供たちがダンスをする番組で、いい顔をする彼らに引き込まれました。ダンス教室を訪ねたら、「自分の感情をダンスで表現してみて」と言われました。やはり私は介護で感じた思いが大きい。いつのまにかうらみつらみを夢中で表現していました。
それを見た先生は「すばらしかったわ。でもあなたにはチャーミングなところもたくさんあるから次はそれを表現しましょう」と言ってくれました。介護では自分の嫌なところや、人間の汚い部分を何度も見なくてはなりません。
「いつになったら解放してくれるの」なんていう冷たい感情がどうしてもわいてくる。そのやり場のない気持ちを、誰にも見せずに押し殺してきました。でもいつのまにか人を信じ、愛することも忘れてしまった。「ありがとう」さえ言えない自分がいました。
講談やダンスの先生に出会って、やっとドロドロの自分でいいじゃない、喜怒哀楽、どの感情も私なんだと認めることができました。初めて自分を許せたのです。そして夫や周囲の優しさに気づき、感謝できるようになりました。

人の命を預かるのは重い。葛藤があって当たり前、下手な介護でいいじゃないかと思います。

今、隣に住む夫の叔母を介護しています。母にも義母にも、もっとやさしくしてあげればよかった。二度の介護は悔いばかりです。腹を据えて介護した人は「思い残すことはなにもない」と言います。
三度目の介護は私もそう言いたいと思います。

2005年7月1日(金)の産経新聞より抜粋